最後に
この日最後に訪れた、宮城県東松島市赤井にある「大槻俊斎先生誕生の地」。
県道をはさんで向かい側に、赤井遺跡の案内板があります。
大槻俊斎については、以下とおり案内板より転記。
文化元年(一八〇四年)父武治、母おこしとの次男として生まれる。医を志し、十八歳のとき江戸(今の東京)に出、医術を修め更に天保八年(一八三七年)より三年間長崎で西洋医学(蘭学)を専攻する。
三十七歳で江戸に戻り町医者を開業、高野長英と親交あり。四十六歳牛痘による種痘を初めて成功する。五十三歳で仙台藩医に登用され、兄竜之進もまた仙台本藩に召し出される。安政五年(一八五八年)世情騒然たる中で「お玉が池種痘所」を設立する。五十七歳で御番医師並びに種痘所頭取に任ぜられ、後に種痘所を西洋医学所と改称し、引き続き頭取となる。この医学所が東京大学医学部の前身である。
文久二年(一八六二年)四月十日、病篤く没する。享年五十九歳であった。
東松島市役所矢本保健相談センターの駐車場の真ん中に、どーんと建ってます。
以下、銅像の説明板より転記。
大槻俊斎先生は、文化元年(一八〇四年)矢本町赤井字星場の地において生誕され文政五年(一八二二年)十八才の時向学の熱情に燃え江戸に出て手塚良仙先生に蘭学による医学を学び、三十四才から三年間長崎にて更に研鑽を積まれ、再び江戸に戻り開業医として活躍されました。
先生は、安政五年(一八五八年)神田お玉ヶ池に種痘所を創設し、以後その実績が認められ官立に昇格、更に西洋医学所、医学校を経て今日の東京大学医学部へと発展したものであり、まさに我が国近代医学の草分け的存在であります。
種痘所の初代頭取になられたのは、当時における一流の蘭学医八十数名から推されて就任されたものであり、先生の学識、人格がいかに抜群であったかを物語るものであります。
このような国家的希世の先賢が我が郷土の出身であることは、私たち町民にとって誠に大きな誇りであります。
教育と文化の町を標榜する本町として郷土の先人が近代医学に印した偉大な足跡とその苦難の奇跡をたどり、その深淵な人徳を讃え併せて愛郷精神の醸成と文化振興を図るため、矢本町合併三十周年を記念する事業の一環として、県内外篤志者糾合し全町一円賛意の下、大槻俊斎先生の銅像を建立し長く後世に残します。
上の説明にある手塚良仙は俊斎の義兄であり、また漫画家・手塚治虫氏の曽祖父にあたります。
種痘所の創設の件は、手塚先生の漫画『陽だまりの樹』にも描写がありましたね。
これにて去年の暮れの大和町~大郷町~東松島市の探訪記は終了。
それにしても、なんとういう行き当たりばったり感。
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