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牡鹿半島の太平洋戦争遺構巡り(2)

ちょっと間が空きましたが、(1)の続きです。


【鮫浦】
石巻市鮫浦にある鮫浦湾。

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鮫浦漁港。

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谷川小学校跡より望む鮫浦湾。

「日本特攻艇戦史」によると、ここには震洋の基地が置かれ、11本の横穴が掘られたとのことです。
が、残念ながら遺跡の類は見つけられませんでした。
震災前ならまだ残っていたのでしょうか。


【観音寺】
石巻市鮎川浜にある観音寺。
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大戦中においては、漁船などの民間船も徴用されて軍事に携わりました。
特に捕鯨の町として栄えた旧・牡鹿町には、数多くの大型漁船を保有していたため、そのほとんどが戦地に赴きましたが、それに伴って乗組員や船の犠牲も多大なものとなりました。
観音寺境内にある「海尓眠る乃碑」は、戦没した捕鯨船乗組員を慰霊するために、昭和36年に大洋漁業株式会社により建立されました。
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【御番所山防空監視哨舎跡】
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牡鹿半島の先端部にある御番所公園内に、江戸時代に仙台領内の海岸監視を行った鮎川浜唐船御番所の復元棟があります。
ここには、昭和16年12月に民間の「石巻防空監視隊第四監視哨」が置かれ、鮎川青年学校の生徒や青年団員らが、終戦時まで対空監視を行いました。

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御番所公園から望む金華山。
信仰の島として知られるこの場所には、明治時代から海軍望楼などが設置されていた金華山灯台があり、戦時中も女川防備隊の金華山特設見張所が置かれていました。
大戦末期にはここも攻撃対象とされ、「牡鹿町史」によると、昭和20年7月26日には米軍の潜水艦による砲撃により施設が被害を受け、灯台長が殉職されました。
また、同年7月17日から8月9日の間に、計4回の空襲を受けたとの記録があります。

余談ですが、平成23年3月11日の東日本大震災の時には、津波の前触れの引き潮により、牡鹿半島と金華山の間の海底が露出しました。
上の写真からは、とても想像がつきませんよね・・・

Dsc01241
御番所公園から望む網地島。
ここも、大戦末期に米軍の潜水艦による雷撃を受けました。
しかし、魚雷は浜の近くの岩礁に当り、被害はなかったとのことです。

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御番所公園の下、鮎川港にある「おしかホエールランド」跡。
津波の被害により施設は休業中ですが、捕鯨船「第十六利丸」はこの地に残っています。
この船は全長68m、排水量758トン。
旧海軍の艦艇と照らし合わせると、丙型・丁型海防艦と同じくらいの大きさですね。


【小淵】
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石巻市小淵の小淵漁港。
「牡鹿町史」によると、ここには「震洋」の配備が計画されていました。
また、「回天」「蛟龍」の配備も計画され、郡山海軍航空隊より約300名の兵が派遣され、付近の大原・給分浜・小渕に分散宿泊して壕の構築や食料自給のための開墾を行っていました。


【小網倉】
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東側より。

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小網倉漁港。

「牡鹿町史」によると、ここの逸平楽という地区に「回天」の配備が計画され、約300名の兵が壕の構築に当っていました。
壕の入口は縦横5メートルと大きなもので、終戦の日まで掘り続けられました。


【荻浜】
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明治時代、横浜-函館間に定期航路が運行され、その寄港地として繁栄した荻浜。
「牡鹿町史」によると、ここには「海龍」が配備され、後に野々浜に回航されたと記されています。


今回は、事前調査が足らなかったせいで、見逃した場所が結構ありました。
また機会を見つけて探索したいと思います。

そして、終戦の日からは少し過ぎてしまいましたが、あらためて黙祷。

牡鹿半島の太平洋戦争遺構巡り(1)

今年の4月初めのことでした。

図書館で、県内の市町村史を使って調べ物をしていたとき、
「太平洋戦争末期、牡鹿半島に本土決戦のための施設が置かれていた」
というのを知りました。

東松島市の浦戸諸島に、水上特攻兵器「震洋」が配備されたというのは何かの本で読んで知っていたのですが、牡鹿半島にも同様の施設があったとは、寡聞にしてこれまで知りませんでした。

そして今年は終戦70周年の節目の年。
「今そのことを知ったのも何かの縁」と思い、4月の終わりに牡鹿半島にある太平洋戦争の遺構を訪問してみました。


【女川湾海戦碑】
まずは国道398号沿いにある「女川湾海戦碑」。
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昭和20年8月9日、長崎に原子爆弾が落とされたこの日、軍港があった女川も英・米・加の連合軍による空襲を受けました。
この空襲は翌10日まで続き、海防艦「天草」をはじめ、数隻の艦艇が沈没しました。
その時に亡くなった方々を供養するため、昭和41年にこの碑が建てられました。

ちなみに、このとき沈没した艦艇の中に標的艦「大浜」があります。
標的艦は演習の際に用いられる艦で、文字通り味方の戦闘機や艦艇の「標的」となる艦です(といっても、このときに使われる砲弾などは、火薬を抜いた演習用の物ですが)。
しかしこの大浜は、竣工した直後に対空用の機銃を搭載するなどの改造が施され、女川港に配備されました。
そして、味方の砲弾を受ける標的艦として生まれながら一度も演習に用いられることはなく、最後は敵の空襲に遭い沈没するという、数奇な運命をたどった艦でした。

女川防備隊所属艦艇戰没者供養塔。
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4年前の東日本大震災により、大きく破損しています。
一日も早く、修復されることを望みます。

嵐部隊碑。
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牡鹿半島に配備された特別攻撃部隊「嵐部隊」の概略が刻まれています。
この碑文の中に、
「一方牡鹿半島全域に亘り第十四突撃隊嵐部隊司令海軍大佐大田春男以下将兵約四千人は特攻基地を設け 海天、回龍を主として二百数十隻の特攻兵器を配備し本土決戦に備え設営中なるも終戦となる」
とあり、牡鹿半島における特攻基地の存在がうかがえます。
なお、文中の「海天、回龍」は「回天、海龍」の誤記であり、どちらも敵艦艇への体当たり攻撃を目的とした特殊潜航艇、いわゆる「人間魚雷」です。

慰霊塔に立てかけられている碇。
Dsc01157
これは実際に女川湾に沈んだ艦艇のものでしょうか?
あるいは後に作られたレプリカでしょうか?
残念ながら、それを示すものはありませんでした。

かつては、海防艦・天草の乗組員および関係者で組織された「天草会」の寄贈による灯篭があったのですが、震災で倒壊し、現在は一部だけが残されています。

これらの碑がある場所は女川町の中心部から離れたところにあり、車等の移動手段がないと、たどり着くのに一苦労です。
しかし、車で行っても近くに停めるところがないため、これまた一苦労です。
高台にあったために津波の流出を免れたこれらの碑は、後世にも永く伝えていくために、もっと交通の便の良い所に移設してほしいのですが・・・


【グレー大尉慰霊碑】
町内の地域医療センターの一角にある、カナダ空軍パイロット、ロバート・ハンプトン・グレー大尉の慰霊碑。
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グレー大尉は、天草に命中弾を与え撃沈させながらも搭乗機を撃墜され、第二次世界大戦におけるカナダ軍最後の戦死者となりました。
そして、この功績によりカナダの最高勲章であるビクトリア勲章を授けられました。
毎年、在日カナダ大使館からの関係者も列席して、日加合同によるグレー大尉の慰霊祭が行われます。

地域医療センターから見た女川湾。
Dsc01167
この日はよく晴れて波も穏やかでした。
朝早くから、復旧工事のための工事車両が行き交っています。
海軍の資料では、戦後に駆逐艦「汐風」が女川港の堤防に使用されたとなっていますが、実際に使われたのは福島県の小名浜港のようです(実際に、小名浜港には汐風が堤防に使用されていることの案内板、およびの汐風の部品が展示されています)。
戦後の混乱期に、小名浜(おなはま)が女川(おながわ)と誤って伝えられたのでしょうか。

8月9日から10日にわたって行われた空襲により、艦艇の他に民家や港湾施設、国鉄・女川駅などが被害に遭いました。
亡くなられた方も、軍人・民間人会わせて200人以上といわれています。


【照源寺】
町の高台にある照源寺。
このお寺にある忠魂碑のそばに、女川湾海戦で亡くなられた方々の供養のために楊柳観音を建立したことを示す碑があります。
Dsc01181
が、肝心の観音像がどこにあるのかは分かりませんでした。
忠魂碑は昭和16年に、平和楊柳観音建立碑は昭和40年に建てられたものです。

駐車場にあった「大日本帝国陸海征軍隊戰死招魂塔」。
こちらは明治28年に建立。
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【大六天駐車場】
ここから女川町の中心部を離れ、半島先端部を目指します。
県道33号線(通称「コバルトライン」)の途中にある大六天駐車場からは、牡鹿半島の絶景が広がります。
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中央部にあるのが江の島。
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「女川町史」によると、大戦末期にはこの辺りにも米軍の潜水艦が出没するようになり、漁船が被害を受けたと書かれています。
また、大戦勃発によりリン鉱石の輸入が途絶え、農業に使う肥料が不足した際、この付近の島々からウミネコの糞が堆積した「海鳥糞土」を採取したとも書かれています。
この糞土の採掘は、昭和22年のリン鉱石輸入再開まで行われたそうです。


【嵐峠】
コバルトラインをしばらく走っていくと、石巻市との境界付近にある小積橋のたもとに、この碑があります。
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この碑は道路の完成を記念して建立され、裏側には幹部25名の官氏名が彫られています。

この橋の下には、女川町の野々浜地区と石巻市の小積地区を結ぶ、牡鹿半島を南北に横断する道路が通っています。
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女川側。

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石巻側。

牡鹿半島各地に配備された嵐部隊は、物資や兵員の輸送を目的として周辺の道路を整備しました。
この道路もその中の一つで、嵐部隊にちなんで「嵐峠」と名付けられました。
その由来を知る人も少なくなりましたが、今でも地域住民や復旧作業の車が数多く通っています。

実はこの碑、戦後は土中に埋もれていましたが、コバルトラインの工事中に発掘され、その後、女川町在住の元同部隊々員の方が自費で再建したものです。


【野々浜】
この地には、本土決戦のための司令部が置かれました。
対岸が野々浜地区。
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また、特殊潜航艇や、モーターボートに爆弾を積んだ特攻兵器「震洋」の配備が計画されていましたが、実際は配備される前に終戦を迎えました。
「女川町史」によると、
「終戦後、木造兵舎は学校として嵐部隊長から貰いうけそのまゝ五部浦校新築まで使つた。」
との記載があります。


【飯小浜】
工事車両が頻繁に行き来していたため近くに停車できず、付近の写真はあまり撮れませんでした。
なにやら人の手で掘られたような大きな穴を見つけましたが、震災で被害に遭われたお宅の敷地の様だったので、遠くから望遠で撮影。
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この辺りには特殊潜航艇「海龍」が配備されました。
ちなみに、一人乗りが「回天」、二人乗りが「海龍」、五人乗りが「蛟龍」ですが、牡鹿半島には回天と海龍の配備が計画され、実際には海龍だけが配備されました。
「女川町史」や「日本特攻艇戦史」(木俣滋郎/光人社NF文庫)によると、終戦時、一部の兵は徹底抗戦を主張しましたが受け入れられず、その代わりに女川湾まで海龍を航行し、潜航を繰り返すなどのパレード的なことを行ったそうです。

大六天駐車場から見た飯小浜地区。
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長くなりそうなので、ここでいったん切ります。

善応寺横穴墓穴群・探訪(未遂)記

先日、「仙台八街道の界隈の今昔 続・仙台城下の町名由来と町割」(古田義弘/本の森)を読んでいたら、宮城野区燕沢にある善応寺には「善応寺横穴群」と呼ばれる古墳群があり、戦時中は陸軍の弾薬庫として使用された旨の記載がありました。

古墳時代の遺跡が、別の用途で太平洋戦争中に用いられていたということに、興味をひかれました。

ということで、先日近くを通りかかったついでに、善応寺へ立ち寄ってきました。

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県道8号線から、入り組んだ住宅地を縫うようにして、善応寺へ辿り着きました。
ちなみにこのお寺は、第三代仙台藩主・伊達綱宗公の菩提寺でもあります。

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山門をくぐると、善応寺横穴墓穴群の説明板と標柱が目に飛び込んできます。

そしてここを左に折れ、進んでいくと…

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封鎖されていました。



善応寺横穴墓穴群・探訪記【完】



まぁ、安全第一ですからね…
仕方がありません。

…と、ここで帰るのももったいないので、境内をしばし散策してみました。

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蒙古之碑。
元寇で戦死した元(今のモンゴル)の兵士を供養するため、弘安五(一二八二)年に建てられたと云われています。

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善応寺開山堂。
仙台市の指定文化財にもなっているこのお堂は、規模は小さいながらも、禅宗の開山堂としての古い形式を残しており、なかなかの趣があります。
正面は閉まっていますが、脇の墓地の通路を登っていくと、上から全体が望めます。

今回はリサーチ不足でした。
後から調べてみたら、数年前までは仙台市電の車両も保存されていたそうです。
もっと早くに知っていたらなぁ。
かえすがえすも残念。

次回も太平洋戦争中の遺構がメインです。
終戦記念日までにはなんとかアップしたいです…

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