2021年3月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

登米市歴史博物館企画展「今に伝わる仙台藩の遺品~加藤氏寄贈資料展~」

気がつけばもう4月。
こちらでも桜が満開の季節になりました。

そして今年初の更新です。

年明けから仕事が忙しく、冬の寒さも相まって、休みの日はすっかり出不精になっていました。

で、年度末の繁忙期を乗り切り、ようやく出かける余裕も出てきたので、先日宮城県登米市にある登米市歴史博物館に行ってきました。

というのも、現在ここの博物館では「今に伝わる仙台藩の遺品」と題した企画展を行っているのです。
その中には、これまで一般公開されていなかった物もあるというので、これはぜひとも見に行かないと、と思った次第で。
あと入館料無料なので(ここ大事)。

展示物ですが、政宗ははじめとした歴代仙台藩主の書状や、仙台藩に縁のある絵師の絵画などがたくさんありました。
佐藤憲一著「伊達政宗の手紙」(新潮選書)によると、政宗は戦国武将の中でも随一の筆まめであり、手紙などは祐筆に書かせるのが当たり前であった当時でも、自ら筆をとって数多くの手紙を書いています。
そんな政宗直筆の手紙を見られるというのも、なかなか貴重なことでありました。

今回の企画展は前期と後期に分かれており、前期は書状や絵画・書などがメインの展示で、4月10日までです。

っていうか、今日までだし。
相変わらずの情報の遅いさだな、自分。

後期は4月16日から。
次は工芸品が中心ということなので、また行ってみたいと思います。

入館料無料なので(2回目)。

多賀城市埋蔵文化財調査センター企画展「多賀城海軍工廠」

早いもので12月です。
師走です。
しかもあと10日ちょっとで今年も終わりです。
早すぎだろ、2015年。

などと愚痴を言ってみたところで仕方がないので、先日、多賀城市埋蔵文化財調査センターで行われている企画展「多賀城海軍工廠」に行ってきました。

多賀城といえば、奈良時代から平安時代にかけて置かれた陸奥国府や鎮守府が有名ですが、太平洋戦争時には海軍工廠が置かれ、主に航空機用の機銃と弾薬・爆弾の製造を行っていました。
そしてその規模は、現在の多賀城市の1/4を占めていたといいますから、かなりの大きさでした。
宮城県民でも、意外と知られていない史実です。

今回の企画展はパネル展示が多かったのですが、中には当時の建物の建材や水道管、また工廠で働いていた人々の身の回りの品などもあり、なかなか興味深く、気が付けばあっと言う間に1時間以上も経っていました。

ちょっと時間があったので、パネルに記載されていた進駐軍の消火栓を探してみました。

まずは、埋蔵文化財調査センター体験館「多賀城史遊館」脇にある消火栓。
Dsc_0103

東北学院大工学部内にある消火栓。
近くのテニスコートで練習する学生たちの視線を気にしながら金網越しに撮影。
Dsc_0106

同じく東北学院大工学部内にある消火栓。
こちらは西側道路沿い。
Dsc_0107

銘板のアップ。
長年、風雨に晒されていたせいで読みにくくなっていますが、それはそれで味が出ています。
Dsc_0112

ここで多賀城神社に移動。
Dsc_0115

Dsc_0128

ここの神社は、多賀城海軍工廠の奉安殿を本殿としたと伝えられています。
本殿には、海軍の印が書かれている材木が使われています。
下に潜って撮影するのはさすがに失礼なので、遠目から撮影。
Dsc_0131_2

この後、末の松山浄水場に移動。
ここは海軍工廠専用の配水所が設けられた場所であり、仙台市岡田から送られた水を工廠各施設へと配水していました。
敷地内の石碑の脇には、海軍の消火栓や当時の水道管が置かれており、金網越しで外から見られるようになっています。

企画展は無料で、明日12月20日まで行われています。
Dsc_0143

っていうか、あいかわらず情報遅いよ!>自分

一関市博物館企画展「葛西氏の興亡」

早いもので11月になりました。
今年も残すところあと二ヶ月をきりました。

相変わらず更新頻度が残念なことこの上ない当サイトなので、せめてここだけでもこまめに書いていこうと思って臨んだこの一年でしたが、結局この有様ですよ、えぇ。

というわけで、とりあえず何かアクションを起こさねばと思い、先日、一関市博物館に行ってきました。
お目当ては、現在行われている企画展「葛西氏の興亡」。

葛西氏といわれても、東北地方以外のお住まいの方にはあまりピンとこないかもしれません。
せいぜい「歴史SLGで、序盤に隣国の伊達氏か南部氏に攻め込まれて滅亡する、その他の大名」くらいのイメージだと思います。
しかし史実においては、現在の宮城県北東部から岩手県南部一帯を、鎌倉時代から戦国時代までの約400年間にわたって治めていた名家でした。
が、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣しなかったために領地は没収された上、その後の葛西・大崎一揆で旧家臣の多くが離散したため、残された資料はその功績に比して非常に少ないものとなっています。

今回の企画展では、葛西氏が奥州に領地を得てから、戦国時代に滅亡し、その後他家に士官した江戸時代までの様々な資料を展示しています。
葛西氏関係の資料が、これほどまとまって展示されているのを見るのは初めてです。
受付の方によると、岩手県内はもとより宮城県からの来館者も多いそうです。
お近くの葛西氏ファンの方は、ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。
企画展は11月3日までです。

っていうか、今日までかよ!
情報遅いよ!>自分

Dsc01402
今回の企画展のパンフレット。
威厳あふれる初代・清重さん。

牡鹿半島の太平洋戦争遺構巡り(2)

ちょっと間が空きましたが、(1)の続きです。


【鮫浦】
石巻市鮫浦にある鮫浦湾。

Dsc01271
鮫浦漁港。

Dsc01274
谷川小学校跡より望む鮫浦湾。

「日本特攻艇戦史」によると、ここには震洋の基地が置かれ、11本の横穴が掘られたとのことです。
が、残念ながら遺跡の類は見つけられませんでした。
震災前ならまだ残っていたのでしょうか。


【観音寺】
石巻市鮎川浜にある観音寺。
Dsc01225

大戦中においては、漁船などの民間船も徴用されて軍事に携わりました。
特に捕鯨の町として栄えた旧・牡鹿町には、数多くの大型漁船を保有していたため、そのほとんどが戦地に赴きましたが、それに伴って乗組員や船の犠牲も多大なものとなりました。
観音寺境内にある「海尓眠る乃碑」は、戦没した捕鯨船乗組員を慰霊するために、昭和36年に大洋漁業株式会社により建立されました。
Dsc01205

Dsc01219


【御番所山防空監視哨舎跡】
Dsc01266
牡鹿半島の先端部にある御番所公園内に、江戸時代に仙台領内の海岸監視を行った鮎川浜唐船御番所の復元棟があります。
ここには、昭和16年12月に民間の「石巻防空監視隊第四監視哨」が置かれ、鮎川青年学校の生徒や青年団員らが、終戦時まで対空監視を行いました。

Dsc01242
御番所公園から望む金華山。
信仰の島として知られるこの場所には、明治時代から海軍望楼などが設置されていた金華山灯台があり、戦時中も女川防備隊の金華山特設見張所が置かれていました。
大戦末期にはここも攻撃対象とされ、「牡鹿町史」によると、昭和20年7月26日には米軍の潜水艦による砲撃により施設が被害を受け、灯台長が殉職されました。
また、同年7月17日から8月9日の間に、計4回の空襲を受けたとの記録があります。

余談ですが、平成23年3月11日の東日本大震災の時には、津波の前触れの引き潮により、牡鹿半島と金華山の間の海底が露出しました。
上の写真からは、とても想像がつきませんよね・・・

Dsc01241
御番所公園から望む網地島。
ここも、大戦末期に米軍の潜水艦による雷撃を受けました。
しかし、魚雷は浜の近くの岩礁に当り、被害はなかったとのことです。

Dsc01269
御番所公園の下、鮎川港にある「おしかホエールランド」跡。
津波の被害により施設は休業中ですが、捕鯨船「第十六利丸」はこの地に残っています。
この船は全長68m、排水量758トン。
旧海軍の艦艇と照らし合わせると、丙型・丁型海防艦と同じくらいの大きさですね。


【小淵】
Dsc01289
石巻市小淵の小淵漁港。
「牡鹿町史」によると、ここには「震洋」の配備が計画されていました。
また、「回天」「蛟龍」の配備も計画され、郡山海軍航空隊より約300名の兵が派遣され、付近の大原・給分浜・小渕に分散宿泊して壕の構築や食料自給のための開墾を行っていました。


【小網倉】
Dsc01291
東側より。

Dsc01309
小網倉漁港。

「牡鹿町史」によると、ここの逸平楽という地区に「回天」の配備が計画され、約300名の兵が壕の構築に当っていました。
壕の入口は縦横5メートルと大きなもので、終戦の日まで掘り続けられました。


【荻浜】
Dsc01325
明治時代、横浜-函館間に定期航路が運行され、その寄港地として繁栄した荻浜。
「牡鹿町史」によると、ここには「海龍」が配備され、後に野々浜に回航されたと記されています。


今回は、事前調査が足らなかったせいで、見逃した場所が結構ありました。
また機会を見つけて探索したいと思います。

そして、終戦の日からは少し過ぎてしまいましたが、あらためて黙祷。

牡鹿半島の太平洋戦争遺構巡り(1)

今年の4月初めのことでした。

図書館で、県内の市町村史を使って調べ物をしていたとき、
「太平洋戦争末期、牡鹿半島に本土決戦のための施設が置かれていた」
というのを知りました。

東松島市の浦戸諸島に、水上特攻兵器「震洋」が配備されたというのは何かの本で読んで知っていたのですが、牡鹿半島にも同様の施設があったとは、寡聞にしてこれまで知りませんでした。

そして今年は終戦70周年の節目の年。
「今そのことを知ったのも何かの縁」と思い、4月の終わりに牡鹿半島にある太平洋戦争の遺構を訪問してみました。


【女川湾海戦碑】
まずは国道398号沿いにある「女川湾海戦碑」。
Dsc01165

昭和20年8月9日、長崎に原子爆弾が落とされたこの日、軍港があった女川も英・米・加の連合軍による空襲を受けました。
この空襲は翌10日まで続き、海防艦「天草」をはじめ、数隻の艦艇が沈没しました。
その時に亡くなった方々を供養するため、昭和41年にこの碑が建てられました。

ちなみに、このとき沈没した艦艇の中に標的艦「大浜」があります。
標的艦は演習の際に用いられる艦で、文字通り味方の戦闘機や艦艇の「標的」となる艦です(といっても、このときに使われる砲弾などは、火薬を抜いた演習用の物ですが)。
しかしこの大浜は、竣工した直後に対空用の機銃を搭載するなどの改造が施され、女川港に配備されました。
そして、味方の砲弾を受ける標的艦として生まれながら一度も演習に用いられることはなく、最後は敵の空襲に遭い沈没するという、数奇な運命をたどった艦でした。

女川防備隊所属艦艇戰没者供養塔。
Dsc01160
4年前の東日本大震災により、大きく破損しています。
一日も早く、修復されることを望みます。

嵐部隊碑。
Dsc01159
牡鹿半島に配備された特別攻撃部隊「嵐部隊」の概略が刻まれています。
この碑文の中に、
「一方牡鹿半島全域に亘り第十四突撃隊嵐部隊司令海軍大佐大田春男以下将兵約四千人は特攻基地を設け 海天、回龍を主として二百数十隻の特攻兵器を配備し本土決戦に備え設営中なるも終戦となる」
とあり、牡鹿半島における特攻基地の存在がうかがえます。
なお、文中の「海天、回龍」は「回天、海龍」の誤記であり、どちらも敵艦艇への体当たり攻撃を目的とした特殊潜航艇、いわゆる「人間魚雷」です。

慰霊塔に立てかけられている碇。
Dsc01157
これは実際に女川湾に沈んだ艦艇のものでしょうか?
あるいは後に作られたレプリカでしょうか?
残念ながら、それを示すものはありませんでした。

かつては、海防艦・天草の乗組員および関係者で組織された「天草会」の寄贈による灯篭があったのですが、震災で倒壊し、現在は一部だけが残されています。

これらの碑がある場所は女川町の中心部から離れたところにあり、車等の移動手段がないと、たどり着くのに一苦労です。
しかし、車で行っても近くに停めるところがないため、これまた一苦労です。
高台にあったために津波の流出を免れたこれらの碑は、後世にも永く伝えていくために、もっと交通の便の良い所に移設してほしいのですが・・・


【グレー大尉慰霊碑】
町内の地域医療センターの一角にある、カナダ空軍パイロット、ロバート・ハンプトン・グレー大尉の慰霊碑。
Dsc01173
グレー大尉は、天草に命中弾を与え撃沈させながらも搭乗機を撃墜され、第二次世界大戦におけるカナダ軍最後の戦死者となりました。
そして、この功績によりカナダの最高勲章であるビクトリア勲章を授けられました。
毎年、在日カナダ大使館からの関係者も列席して、日加合同によるグレー大尉の慰霊祭が行われます。

地域医療センターから見た女川湾。
Dsc01167
この日はよく晴れて波も穏やかでした。
朝早くから、復旧工事のための工事車両が行き交っています。
海軍の資料では、戦後に駆逐艦「汐風」が女川港の堤防に使用されたとなっていますが、実際に使われたのは福島県の小名浜港のようです(実際に、小名浜港には汐風が堤防に使用されていることの案内板、およびの汐風の部品が展示されています)。
戦後の混乱期に、小名浜(おなはま)が女川(おながわ)と誤って伝えられたのでしょうか。

8月9日から10日にわたって行われた空襲により、艦艇の他に民家や港湾施設、国鉄・女川駅などが被害に遭いました。
亡くなられた方も、軍人・民間人会わせて200人以上といわれています。


【照源寺】
町の高台にある照源寺。
このお寺にある忠魂碑のそばに、女川湾海戦で亡くなられた方々の供養のために楊柳観音を建立したことを示す碑があります。
Dsc01181
が、肝心の観音像がどこにあるのかは分かりませんでした。
忠魂碑は昭和16年に、平和楊柳観音建立碑は昭和40年に建てられたものです。

駐車場にあった「大日本帝国陸海征軍隊戰死招魂塔」。
こちらは明治28年に建立。
Dsc09013


【大六天駐車場】
ここから女川町の中心部を離れ、半島先端部を目指します。
県道33号線(通称「コバルトライン」)の途中にある大六天駐車場からは、牡鹿半島の絶景が広がります。
Dsc01186

中央部にあるのが江の島。
Dsc01189

「女川町史」によると、大戦末期にはこの辺りにも米軍の潜水艦が出没するようになり、漁船が被害を受けたと書かれています。
また、大戦勃発によりリン鉱石の輸入が途絶え、農業に使う肥料が不足した際、この付近の島々からウミネコの糞が堆積した「海鳥糞土」を採取したとも書かれています。
この糞土の採掘は、昭和22年のリン鉱石輸入再開まで行われたそうです。


【嵐峠】
コバルトラインをしばらく走っていくと、石巻市との境界付近にある小積橋のたもとに、この碑があります。
Dsc01193
この碑は道路の完成を記念して建立され、裏側には幹部25名の官氏名が彫られています。

この橋の下には、女川町の野々浜地区と石巻市の小積地区を結ぶ、牡鹿半島を南北に横断する道路が通っています。
Dsc01201
女川側。

Dsc01202
石巻側。

牡鹿半島各地に配備された嵐部隊は、物資や兵員の輸送を目的として周辺の道路を整備しました。
この道路もその中の一つで、嵐部隊にちなんで「嵐峠」と名付けられました。
その由来を知る人も少なくなりましたが、今でも地域住民や復旧作業の車が数多く通っています。

実はこの碑、戦後は土中に埋もれていましたが、コバルトラインの工事中に発掘され、その後、女川町在住の元同部隊々員の方が自費で再建したものです。


【野々浜】
この地には、本土決戦のための司令部が置かれました。
対岸が野々浜地区。
Dsc01282

また、特殊潜航艇や、モーターボートに爆弾を積んだ特攻兵器「震洋」の配備が計画されていましたが、実際は配備される前に終戦を迎えました。
「女川町史」によると、
「終戦後、木造兵舎は学校として嵐部隊長から貰いうけそのまゝ五部浦校新築まで使つた。」
との記載があります。


【飯小浜】
工事車両が頻繁に行き来していたため近くに停車できず、付近の写真はあまり撮れませんでした。
なにやら人の手で掘られたような大きな穴を見つけましたが、震災で被害に遭われたお宅の敷地の様だったので、遠くから望遠で撮影。
Dsc01278

この辺りには特殊潜航艇「海龍」が配備されました。
ちなみに、一人乗りが「回天」、二人乗りが「海龍」、五人乗りが「蛟龍」ですが、牡鹿半島には回天と海龍の配備が計画され、実際には海龍だけが配備されました。
「女川町史」や「日本特攻艇戦史」(木俣滋郎/光人社NF文庫)によると、終戦時、一部の兵は徹底抗戦を主張しましたが受け入れられず、その代わりに女川湾まで海龍を航行し、潜航を繰り返すなどのパレード的なことを行ったそうです。

大六天駐車場から見た飯小浜地区。
Dsc01187


長くなりそうなので、ここでいったん切ります。

善応寺横穴墓穴群・探訪(未遂)記

先日、「仙台八街道の界隈の今昔 続・仙台城下の町名由来と町割」(古田義弘/本の森)を読んでいたら、宮城野区燕沢にある善応寺には「善応寺横穴群」と呼ばれる古墳群があり、戦時中は陸軍の弾薬庫として使用された旨の記載がありました。

古墳時代の遺跡が、別の用途で太平洋戦争中に用いられていたということに、興味をひかれました。

ということで、先日近くを通りかかったついでに、善応寺へ立ち寄ってきました。

Dsc_0302
県道8号線から、入り組んだ住宅地を縫うようにして、善応寺へ辿り着きました。
ちなみにこのお寺は、第三代仙台藩主・伊達綱宗公の菩提寺でもあります。

Dsc_0294

Dsc_0295
山門をくぐると、善応寺横穴墓穴群の説明板と標柱が目に飛び込んできます。

そしてここを左に折れ、進んでいくと…

Dsc_0299
封鎖されていました。



善応寺横穴墓穴群・探訪記【完】



まぁ、安全第一ですからね…
仕方がありません。

…と、ここで帰るのももったいないので、境内をしばし散策してみました。

Dsc_0290

Dsc_0293
蒙古之碑。
元寇で戦死した元(今のモンゴル)の兵士を供養するため、弘安五(一二八二)年に建てられたと云われています。

Dsc_0289
善応寺開山堂。
仙台市の指定文化財にもなっているこのお堂は、規模は小さいながらも、禅宗の開山堂としての古い形式を残しており、なかなかの趣があります。
正面は閉まっていますが、脇の墓地の通路を登っていくと、上から全体が望めます。

今回はリサーチ不足でした。
後から調べてみたら、数年前までは仙台市電の車両も保存されていたそうです。
もっと早くに知っていたらなぁ。
かえすがえすも残念。

次回も太平洋戦争中の遺構がメインです。
終戦記念日までにはなんとかアップしたいです…

白石探訪記(その2)

ちょっと間が空いてしまいましたが、白石探訪記(その2)です。

当信寺から、徒歩でやってきました白石城。
この時点でもうお昼を過ぎていましたが、もう少し頑張ります。

詳細はいずれ征服攻城委員会の方に書くとして、ざっと雑感まで。

【白石城】
東口門へと至る坂。
Dsc00594
朝からずっと歩き詰めだったせいか、脚がちょっと辛くなってきた感が。

東口門跡。
Dsc00596
ここに、当信寺にあった門が建っていました。

本丸外郭石垣。
Dsc00604
築城後に改修がされているため、写真の真ん中あたりから石の積み方が変わっているのが分かります。

大手二ノ門と天守を下から撮影。
Dsc00612
ここからだと、春には桜がきれいでしょうね。

二の丸跡。
Dsc00668
今は公園になっています。

二の丸にある「横綱碑」。
Dsc00676
傑山寺にお墓があった谷風と、第十八代横綱・大砲萬右衛門の名が刻まれた碑。
白石が生んだ二大横綱、揃い踏みです。

大砲銅像。
Dsc00683
さすがは横綱、堂々たる偉丈夫です。
明治生まれで身長198cmって、当時としたら相当な巨漢だったんでしょうね。

馬場跡。
Dsc00693
トイレの前に、ひっそりと標柱が建ってます。

井戸屋形(復元)。
Dsc00697
もちろん、水はもうありません。

厩口。
Dsc00623
現在、神明社の鳥居が建っている場所に、延命寺の門が建っていました。

いよいよ本丸へ。
Dsc00699

Dsc00702

Dsc00766
大手二ノ門を潜って行きます。

本丸にある「片倉小十郎景綱公頌徳碑」。
Dsc00710
いつ見ても大きい。
この日は天気が良かったので、本丸は観光客や近所の家族連れでにぎわっていました。
Dsc00714

鐘堂。
Dsc00718
ちなみにここにあった鐘は、現在福島県伊達郡桑折町の傳来寺にあるそうです。

本丸井戸。
Dsc00724
ちょっと覗いてみたい衝動に駆られましたが、ロープが張ってあるので断念。

天守(三層櫓)。
Dsc00726
青空に、白い城壁がよく映えます。
これから中へ。

靴を脱いで中に入るとすぐにあるのが石落とし。
Dsc00728

そして挟間。
Dsc00729
籠城気分が向上します。

格子から外を見た感じ。
Dsc00730

武者走り。
ほんのちょっと早足で歩いてみました。
Dsc00731

一階の展示物。
Dsc00733
甲冑欲しい。
そして着たい。

急な階段を上って二階へ。
Dsc00736
「頭上注意」と書かれていても、ぶつかるときはぶつかります(そしてぶつかった)。

この日、二階では絵画の展示を行っていました。
Dsc00738
街にお城の天守がある子供たち、うらやましい。

階段の裏側。
Dsc00752
意外と見落としがち。

最上階に上ってきました。
まずは本丸と白石蔵王駅方面の市街地。
Dsc00744
本当にいいお天気です。
絶好の城攻め日和です。

大手二ノ門方面を上から。
Dsc00742
高所恐怖症なので、このくらいが限界でした。

二の丸方面を上から。
Dsc00743
怖さのあまり、ちょっと斜めになってしまいました。

最上階の天井部。
Dsc00747
なんとなく厳かな気分になります。

天井の梁など。
Dsc00748
複雑に入り組んでいて、これだけでもすごい技術だなぁ、と。

新幹線が頻繁に通って行くのが見えます。
Dsc00750

家臣の出入り口である付け櫓。
Dsc00758

土壁の構造を説明する実物モデルもそばに。
Dsc00760

実際に使用されている和釘。
Dsc00762
これ、お土産にあったら欲しいです。
なんか縁起物っぽくて。

本丸御殿跡。
Dsc00764
主要な建物はこの辺りにありました。

本丸の幟。
Dsc00765
逆光でかっこよかったので思わず撮影。

気が付けばお昼の時間はとっくに過ぎていていたので、歴史探訪ミュージアムで遅めの昼食。
小十郎うーめん、500円ナリ。
Dsc00768
空きっ腹に、うーめんの暖かさと柔らかさが嬉しいです。

そして白石市、ブレてない。
Dsc00609

白石の市街地は、至る所に堀が。
Dsc00769_2
城下町の趣が出ています。

Dsc00770
ダジャレか。
ダジャレなのか。

市街地観光はこれにて終了。
車で次の目的地へ。


【田村清顕公の墓】
伊達政宗の正妻・愛姫の父親である田村清顕とその一族の墓。真ん中の大きな墓石が清顕のものです。
Dsc00774
ちなみにこの中に真田幸村の墓石もあるのですが、それを知ったのは家に帰ってからだったためで、この写真では全然わかりません(T_T)


【少納言喜多の墓】
片倉小十郎の異父姉であり、伊達政宗の乳母を務めた喜多の墓。
Dsc00797

Dsc00778
喜多は未婚だったため、実際には乳母というより教育係のような役目だったといわれています。

これにて本日の予定は終了。
国道4号線を北に向います。

と、ここで休憩のために立ち寄った道の駅・村田でまた寄り道。

道の駅に併設されている村田町歴史みらい館。
Dsc00847
無料なのに展示物は充実しており、ここのためだけにまた来たいくらいです。
建物の前にあるのは、同町出身の重量挙げオリンピック金メダリスト・三宅義信氏の銅像。
Dsc_0022

その脇にある村田町城山公園は、村田城跡に造られています。
ここも、詳細はいずれ征服攻城委員会の方に書くとして、ざっと雑感まで。


【村田城】
公園の入り口付近。
Dsc00800
意外と広いです。

本丸跡は野外広場となっています。
Dsc00817

説明版も設置されています。
Dsc00821_2

本丸から見た北側の風景。
Dsc00844

以上で今回の探訪記は終了。
また時間があれば来てみたいです。


【おまけ】
お土産の牛たんじゃーきーで晩酌。
Dsc_0041
筆頭、あいかわらずの男前っぷり。

白石探訪記(その1)

11月も半ばとなり、今年も残すところあと一ヶ月と少し。
本格的な冬も間近ですねぇ。

・・・と思ったらいてもたってもおられず、先日、突発的に史跡めぐりに行ってきました。

どうせ行くならちょっと遠くまでと思い、行った先は白石市。
まだ日の登らない朝の5時半に家を出で、車を走らせること約3時間。
最初の目的地である孝子堂に来ました。


【孝子堂】
江戸時代、武士に父親を手討ちにされた二人の娘が、仇を取るべく修行のために江戸に出て、由井正雪の元で姉のまちは鎖鎌、妹のおそのは薙刀をそれぞれ学び、白石に戻ってきて見事本懐を遂げるという顛末です。
この話は、のちに「碁太平記白石噺」「奥州白石噺」などの芝居の題目にもなりました。
その姉妹と父を祀ったのが、この孝子堂です。

石段を登って本堂に向かいます。
Dsc00422

左に建っているのは、徳富蘇峰の書による標柱です。
Dsc00426

こちらが本堂。
Dsc00428
守護仏は弁財天です。

孝子堂の前には、土井晩翠の歌碑と「孝女宮城野信夫父之碑」。
Dsc00432
「宮城野」「信夫」は、芝居の中でのまちとおそのの名前です。

ここで次の目的地に移動しようと思ったら、そばにあった案内板に「三沢城跡」の文字が。
城跡とあれば行かぬ訳にはまいりません。
ということで、急遽予定を変更して寄り道。


【大聖寺(三沢城跡)】
三沢城跡は大聖寺というお寺のそばにあるということで、それを目指して山の方へ向かって行きます。
だんだん道が細くなっていき、少々心細かったのですが、道の脇にお寺の看板が。
そして辿り着きました、大聖寺。
Dsc00444

詳細は、いずれ征服攻城委員会の方で。

境内にあった「訪問の樹」。
Dsc00449
旧仙台陸軍飛行学校幹部候補生八州隊有志の方々によるものです。


【傑山寺】
市街地にやってきて、まず訪れたのは傑山寺。
傑山寺本堂と片倉小十郎景綱の銅像。
Dsc00520

Dsc00525
以前来たときは、この銅像はありませんでした。
男前ですね、小十郎さん。

実はここ、5年ほど前に一度訪れているのです。
というのも、こちらのお寺には新選組隊士・久米部正親のお墓があるというので、お参りに来たのです。
しかし、その時はお墓の場所が分からずに、広大な墓地を延々と彷徨う羽目になってしまいました。
なので、今回はリベンジです!

・・・とはいうものの、事前にネットで調べても具体的なお墓の位置は分からず、結局お墓とその周囲の様子が写った画像だけを頼りに探すことに。

その途中で訪れた、様々な方のお墓を以下に。

[松前家の墓]
Dsc00517
松前安廣と松前家の墓所。
初代松前藩主・松前慶広の五男である安廣のお墓がなぜここにあるのか、その訳はここに(傑山寺HPへのリンク)。
自由だな、安廣さん(笑)

[片倉家墓所]
Dsc00515
片倉家歴代藩主のお墓があります。
小十郎景綱のお墓はまた別の所に。

[片倉小十郎景綱の墓]
Dsc00454
墓は墓石ではなくこの杉の木。
見上げるほどの立派な大木です。
これは、敵にあばかれないように、あえて石ではなく杉の木を墓標にしたといわれています。

[佐藤孝郷の墓]
Dsc00460
十九歳の若さで片倉家の家老を務めたほどの人物ですが、戊辰戦争後は北海道に移住して開拓に尽力しました。
後に、初代・札幌区長になった方です。

[駆逐艦曙戦歿者慰霊碑][海軍少佐従六位勲五等岩淵成忠之碑]
Dsc00500

Dsc00502

Dsc00471

Dsc00476
太平洋戦争時、駆逐艦・曙の砲術長をしていた岩淵少佐と、曙の乗組員の慰霊碑。
碑の裏側にある岩淵少佐の略歴を見ると、曙だけではなく航空母艦・翔鶴や練習艦・八雲にも乗っていたんですね。

[初代谷風の墓]
Dsc00513
江戸時代の大横綱、第四代横綱・谷風梶之助の墓。
仙台市民には、勾当台公園の銅像でおなじみですね。
「この墓石は、生前、自らが背負ってきたものといわれている」ってサラッと書いてありますが・・・結構大きいですよ、石(汗)

で、二時間ほど墓地を彷徨っていましたが、お目当ての久米部正親のお墓は見つからず・・・
今回も空振りか・・・と半ば諦めかけていたその時、目の先に見える墓石の形に見覚えが。もしやと思い近づいて、墓石をよく見てみると・・・

あ、あった!ありました!
久米部正親のお墓です!
Dsc00528

横には改名後の「猪野忠敬」の名が。
Dsc00531
ようやく本懐を果たせました(T_T)

正直、なんの手がかりもなしにこちらのお墓を見つけることは、非常に困難です。
なので、これからお参りに行く方のために、簡単な道案内を。

傑山寺の本堂から行くと見つけづらいので、道路側からアプローチ。
傑山寺と清林寺の間にある、この道を登っていきます。
Dsc00544

そして、突き当りを右の細い道の方に曲がります。
狭いので見落としに注意。
Dsc00543

ここまで来ると、遠くにお墓が見えてきます。
Dsc00541
(写真では、中央上部の白っぽく見えるお墓です。)
ここを左に曲がった後、すぐに右に曲がります。

いよいよラストスパート。
この竹垣の細い道を行った突き当りが、久米部正親のお墓です。
Dsc00539

大阪で生まれ、新選組隊士として動乱の幕末の京都を駆け抜け、戊辰戦争では会津などで奮戦した久米部が、なぜここ白石の地に眠っているのか・・・
そんな思いを抱きながら、墓石に手を合わせます。


【清林寺】
傑山寺から墓地の中を歩いていたら、知らず知らずのうちに清林寺まで来ていました。
Dsc00545
こちらのお寺は、真田家々臣・三井氏によって興された「真田幸村ゆかりの寺」です。
寺紋は「六文連銭」ですが、これは三井氏が真田家と縁戚になり、真田家と同じ家紋を用いることになったことに由来します。

境内にある三井氏の墓碑。
Dsc00548


ここからちょっと移動して市街地の方へ。
まずは延命寺へ。


【延命寺】
こちらの山門は、白石城の厩口門を移設したもの。
Dsc00554
なんとなく笑っているように見えて、愛嬌のある門です(笑)

内側から見たところ。
Dsc00561
こっちはシンプルですね。


【当信寺】
市役所の駐車場に車を移動して、徒歩で当信寺へ。
こちらの山門は、白石城の東口門を移設したもの。
Dsc00590

内側から見たところ。
Dsc00569
自転車置き場としても活用されています(笑)

[真田阿梅・大八の墓]
真田幸村の遺児である、大八と阿梅のお墓。
Dsc00583

Dsc00585

Dsc00586
阿梅のお墓にある如意輪観音像は、かつては削った石の粉を飲めば歯痛に効くといわれていたため、今ではすっかりやせ細ってしまいました(^_^;)

[白石老人の墓]
白石老人は、江戸時代初期に白石に住んでいた仙人のような人物と伝わります。
氏素性は謎に包まれていながらも、武芸をはじめあらゆることに精通していて、多くの人々に尊敬されていたとのこと。
一説には、甲州武田家の名のある武将だったのではともいわれています。
Dsc00580


その2に続きます。

秋深し

10月も半ばを過ぎて、朝晩はすっかり冷え込んできました。
稲刈りも藁上げも終わり、農作業的には一段落といったところです。

こんにちは、写楽斎です。

またちょっと更新の間が開いてしまいました。
今年は公私ともに何かと忙しくしていますが、そんな中でも時間を見つけては近くの史跡等をフラフラしています。

先日は大崎市岩出山まで足を延ばして、いくつかの城館を巡っていました。
その中で、当サイト立ち上げ当時から掲載している一栗豊後の居城である一栗城を初めて訪れたのが感慨深かったです。
十数年もかかってようやく・・・

あれ?そういえば今年は、ニフティサーブ時代にパソコン通信を初めてから20年目。
そうすると、私がネット上で「写楽斎」を名乗り始めてから、もうそれだけの年月が流れたのですか・・・
月日が経つのは本当に早いですねぇ。

まぁ、そんなとりとめのないことを書いたところで、まずは生存報告まで。

皆さまも、風邪などには十分お気を付けください。

それでは。

南東北一回り紀行(下)

続きです。

【14:40 山形着】
やっぱり普段の土日より人が多い山形。
しかも部活帰りの中高生もいっぱいで、なんかもう、その爽やかさに居たたまれなくなって。

【14:52 山形発】
またしてもロングシート・・・もう勘弁して・・・
しかも目の前がトイレの扉で、車窓からの眺めが絶望的という苦行。

でもまぁ、座れただけでもよしとしないと。
まだ先は長いし。
長いし・・・
Dsc09881

【16:07 新庄着】
さすがにロングシートばっかり座っているので、腰の具合がちょっと怪しくなってきました。
ホームでちょっと背伸びをしてから、次の列車に乗り換え。

【16:12 新庄発】
って、またロングシートかよ!(#゚Д゚)
陸羽東線よ、お前までこの仕打ちか!(ひどい八つ当たりを見ました)
そんな思いを胸に秘め、地元高校生集団と温泉地へ向かう多くの観光客に囲まれて出発。
Dsc09883

途中、堺田駅にある分水嶺を通過。
Dsc09885
奥羽本線のときとはまた違った趣で奥羽山脈を越えます。

【17:10 鳴子温泉着】
ここで乗り換え。
漂ってくる硫黄泉の匂いに、もうこのまま温泉に浸かって横になろうかと思いました。

【17:16 鳴子温泉発】
温泉の誘惑を振り切り、いざ小牛田へ。
Dsc09887

【18:18 小牛田着】
小牛田に戻って、この旅も終わり・・・

と思ったものの、この切符は今日一日有効。
すなわち、あと6時間近くも乗れるじゃないか!

ということで、旅はまだ続きます。

【18:51 小牛田発】
乗り換え時間の間に、時刻表で旅程を確認。
よし、今日中に帰ってこられる!
まずは石巻線で石巻へ!
Dsc09889

・・・と、勢い勇んではみたものの、外はだんだん暗くなっていき、外の景色を見ようにも、ガラスに映るのは自分の姿のみ。
さらには、腰の痛みも増してきて・・・

あれ?
もしかして判断ミス?

【19:30 石巻着】
石巻に着いた頃には、すっかり真っ暗。
お腹も空いてきました。

【19:43 石巻発】
あ、この車両は陸羽西線のやつだ。
Dsc09890

【19:57 矢本着】
ここから先は、震災による不通区間。
一旦鉄路を離れます。
Dsc09891

【20:02 矢本発】
代行バスに乗り換え。
真っ暗な被災地の道を、バスはひた走ります。

【20:40 松島海岸着】
代行バスはここまで。
乗ってきたバスを撮ってみましたが、暗くて何が何やら。
Dsc09893

【20:52 松島海岸発】
昼間は観光客で賑わう松島も、この時間はひっそりしてます。
ここからまた鉄路に復帰。
Dsc09897_2

【21:31 あおば通着】
この辺りで、空腹と疲労による睡魔がピークに達しています。
が、まだ終わるわけにはいきません。

【21:32 あおば通発】
乗ってきた列車で、すぐさまとんぼ返り。
慌ただしいことこの上なし。

【21:33 仙台着】
ここで東北本線の下り列車に乗れば小牛田に帰れる。
でも、あと少し頑張ってみる。
なんかもう、ちょっと意地になってる自分がいる。

【21:49 仙台発】
左側がこれから乗る列車。
Dsc09898
ここからは、ちょっとのタイムロスも命取り。
最後の気力を振り絞り、いざラストスパート!(゚Д゚)9

【21:59 南仙台着】
よし、ちゃんと降りれた!
寝過ごさないで済んだ!(←ちょっとヤバかったらしい)

【22:01 南仙台発】
そしてすぐまた仙台へ逆戻り。
お、仙台空港アクセス線の車両だ。
Dsc09906

【22:11 仙台着】
今日4度目の仙台着。
ラスト1本・・・

【22:36 仙台発】
これで本当に最後だー!(゚Д゚)
あとは小牛田まで一直線だー! (゚Д゚)

【23:20 小牛田着】
石越まで行く列車を見送る。
お疲れ様。
Dsc09914

本日の旅程、全て走破いたしました!
これにて「宮城県民はホリデーパスを使ってどれだけ列車に乗ることができるか」実験を終了します!(旅の主旨が変わっていますよ。)
あとは安全運転で帰ります!(なお、小牛田を通過する寝台特急「北斗星」を見送るのは断念した模様。)

なお、帰ってから「田尻から出発していたら、もう一本遅い列車に乗ることができた」ということに気付いたのですが、あえて気付かなかったことにします。

【本日の旅程】
走行ルート:小牛田→仙台→郡山→会津若松→郡山→福島→米沢→山形→新庄→鳴子温泉→小牛田→石巻→矢本→松島海岸→あおば通→仙台→南仙台→仙台→小牛田
所要時間:18時間12分(乗り換え時間含む)
走行距離:723.5km
走行路線数:6路線(東北本線、磐越西線、奥羽本線、陸羽東線、石巻線、仙石線)
乗換え数:17回

より以前の記事一覧